プロレス・スーパースター列伝
ディック・スレーター&タリー・ブランチャード
税込5,184円(本体価格4,800円)■105分■品番SPD-1509
2010年6月13日発売

プロレスの歴史を作って来たスーパースターたち
往年の勇士と現在の素顔を追った感動のドキュメント

※この作品は、1997年よりサムライTVにて放送された番組をDVD化したものです。
紹介されている選手の年齢、肩書き、団体名等は、当時のものですので、ご了承下さい。


【収録選手】

●ディック・スレーター
右ききのテリー“喧嘩番長”

テリー・ファンクの弟分として全日本プロレスマットで人気を集め、無鉄砲で荒々しいファイトスタイルから喧嘩番長と呼ばれた。

タンパ大学時代はレスリングとフットボールで活躍。ヒロ・マツダの下でトレーニングし、1972年にフロリダCWFマットでデビューした。
ラフファイトが得意な若手ヒールとしてダスティ・ローデスとコンビを組み、1975年からはジョージアに転戦してボブ・オートンJr.との喧嘩屋タッグで活躍。
1977年には中西部地区に参戦し、ジャック・ブリスコからミズーリヘビー級王座を奪取。NWA次期王者候補として注目されたが、その後フロリダに戻り、南部ヘビー旧王座、USタッグ王座、フロリダヘビー級王座などを次々に戴冠した。

日本マットには、ファンク・ファミリーの一員として1974年に初来日。テリー・ファンクにそっくりなファイトスタイルで「右利きのテリー・ファンク」と呼ばれ、常連外人となった。
1980年の第8回チャンピオンカーニバルでは、テリー、ブッチャーらの大物を抑えて決勝に進出。ジャンボ鶴田と優勝を争い、名実共にトップレスラーとなった。
UNヘビー級王座、インタータッグ王座に度々挑戦し、世界最強タッグにも4度出場するなど、実に通算17度に渡って全日本プロレスマットに参戦した。
アメリカマットでは、1983年よりミッドアトランティック地区でリック・フレアーと抗争を繰り広げ、1986年後半にはザ・レベルのニックネームでWWFマットに登場。
ドン・ムラコ、アイアン・シークらと闘った。
1996年、背骨の負傷がもとで引退。


●タリー・ブランチャード

塀の中の宣教師

1980年にリック・フレアーを中心に結成され、アメリカマットで一世を風靡した「フォー・ホースメン」オリジナルメンバーの一人。
ジノ・ヘルナンデスとのダイナミックデュオ、アーン・アンダーソンとのブレーンバスターズで知られるタッグの名手。

AWAマットで活躍したジョー・アンダーソンを父に持ち、ウエストテキサス大学時代にはテッド・デビアスやティト・サンタナらと共にフットボール部に所属。
卒業後の1975年、SCWマットで父親との親子タッグを組みデビュー。
ザ・ファンクスらとの抗争で力を付けた。
1981年、ジノ・ヘルナンデスとダイナミックデュオを結成。サウスウエストタッグ王座を通算5度に渡って保持するするなど、悪役コンビとして大活躍をした。
1986年1月、リック・フレアーとの伝統的ユニット「フォー・ホースメン」を結成。人気悪役としてNWAマットを席巻した。1987年9月、アーン・アンダーソンとのコンビでNWA世界タッグ王座を獲得。
1988年後半にはアンダーソンとのコンビでWWFに登場。ブレーンバスターズの名前で、ブリティッシュブルドッグス、ハートファウンデーションらと闘い、1989年7月にはデモリッションを破ってWWF世界タッグ王座を奪取。NWA王座との2大タッグ王座を制した。
しかし同年10月ドラッグテストにかかりWWFマットを離脱。1990年にセミリタイアした。
その後はプロテスタントの説教師となり、宣教活動を行いながら、インディ団体の試合に時折出場。
1985年10月には大阪で「無我」旗揚げ戦に参戦し、藤波辰爾と闘った。