プロレス・スーパースター列伝
ジャック・ブリスコ&ペニー・バナー
税込5,184円(本体価格4,800円)■105分■品番SPD-1508
2010年5月20日発売

プロレスの歴史を作って来たスーパースターたち
往年の勇士と現在の素顔を追った感動のドキュメント

※この作品は、1997年よりサムライTVにて放送された番組をDVD化したものです。
紹介されている選手の年齢、肩書き、団体名等は、当時のものですので、ご了承下さい。


【収録選手】

●ジャック・ブリスコ
エリートレスラー、南部の麒麟児

アマレスエリートとして鳴り物入りでプロレス界にデビュー。
ダニー・ホッジとの連戦で実力を磨き、2年5ヶ月という長期間にわたりNWA世界王座に君臨した南部の麒麟児。
荒々しさや力強さなどとは無縁だったが、カレッジ・レスリング特有の「ハイ・クラッチ」と呼ばれるタックルをプロレスのリングに初めて導入するなど、確かなテクニックで対戦相手からはその強さを讃えられた名レスラーだった。
鉄人ルー・テーズはブリスコを評して「すべてにおいて文句のつけようがない完璧なレスラー。NWA王座の権威を守った最後の王者」と絶賛している。

学生時代はレスリングに熱中し、NCAA全米学生選手権で1964年に2位、翌1965年に優勝など、通算成績89戦87勝2敗という輝かしい実績を残した。
1965年、大型新人としてオクラホマでプロレスデビュー。
デビュー後約半年で、同郷であるダニー・ホッジとの抗争を繰り広げ、プロレスラーとしての力量を身に付けた。
その後はフロリダ、テキサスなど合衆国南部を中心に活躍。南部ヘビ−級王座、フロリダヘビ−級王座などを獲得し、着実にスターへの階段を駆け上がった。

1973年7月、ヒューストンでハーリー・レイスを破りNWAの第48代世界ヘビ−級王者となる。
翌年1月、全日本プロレスに招聘され、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、ハーリー・レイス、ドリー・ファンクJr、ザ・デストロイヤーの挑戦を受け、そのすべてを退けた。
同年12月の再来日でジャイアント馬場に王座を明け渡すも、1週間後に奪回。翌1975年12月にテリー・ファンクに破れるまで、2年半の間世界王座を守り抜いた。
1979年、新日本プロレスに初登場し、アントニオ猪木のNWF王座に挑戦するも敗退。
1981年、全日本プロレスのチャンピオンカーニバルへの出場が最後の来日となった。
1980年代以降は、弟のジェリー・ブリスコとのコンビで活躍。WWEマットにも出場したが、1984年12月を最後にリングを離れている。
2008年3月、ジェリーとともに、WWEの殿堂入りを果たした。


●ペニー・バナー
美貌と運動力を併せ持つリングの牝豹

女王ファビュラス・ムーアとともに黎明期の女子プロレスを牽引した名レスラー、ペニー・バナー。
プロレスにはまったく興味も無く、見たことも無い家庭に育つ。
セントルイスでウエイトレスをしていた時、サム・マソニックNWA会長と腹筋運動を200回できるかという賭けをし、見事これに勝った。
その身体能力を買われてスカウトされ、プロレス入り。
当初はリングサイドで見学しながらプロレスラーの動きを学んだというが、アスリートとしての能力は非常に高く、その美貌と相まって瞬く間に人気レスラーとなった。

NWAテキサス州王者となったのを皮切りに、1956年から1969年にかけNWA世界タッグ王座を3度戴冠。
1961年には、新設されたAWA世界王座の初代王者となっている。
エルビス・プレスリーとのロマンスが噂されたのもこの頃である。
残念ながら日本マットには登場することなく、1977年に引退。不動産業に従事するかたわら、水泳、砲丸投げ、円盤投げシニアオリンピックを目指した。

1992年、PGWA(女子プロレス協会)のコミッショナーに就任し、逝去するまで務めた。
2005年末、肺がんが発見され、2年半にわたる闘病生活の末、2008年5月12日、ノースカロライナ州シャーロッテの自宅で逝去。享年73歳。